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観音寺
曹洞宗。山号は三宝山。永安寺に属す。『尾張恂行記』に 「慶長ト八年(ご焚丑歳、考国豊淳和尚により創也。本尊ノ正(聖)観音像ハ瑞龍公(二代藩主光友)が御深井丸ヨリ当寺二御安置遊サル、観膏堂内二畝御除地、往古山田左衛門菩堤寺旧跡地。薬師堂界内一畝御除地、往古丹羽五郎左衛門城址ノ由 界内児ノ松ト云フ古本アリ、其ノ下二児宮アリ、白山社内一敏、三宮神(松尾明神 春日明神 稲荷明神) 一反共二御除地 以上皆観音寺ノ支配ナリ」とある。一方、『尾張名所図会』には「曲‥迎示、名古屋永安寺末、慶長八年二六〇三」卯年 鏡屋首座ぴ蜀イFて、其後、永安寺一縦穴咋和尚を開基とす。本尊聖観音は国君、山田即斎に命じ給ひ、彫り刻ませて御寄附ありし木像なり、鋲守神明社は元和四年二六一八)十月十六日、赤雲一むら南より来り、当村の大日堂の前にとどまりぬ。其所を見れば伊勢神宮の大麻と本馬一躯ありしかば、村民相議して、社を建て、かの二物を納めて神明社と崇め祭れり、国祖君(義直)ある時、此地に遊び給ひ、当山を伊勢山と名づけ、又社の辺の川に橋をかけさせて、おいせ僑と号け給へり、其ノ川を後に、おいせ川と云ふ。元禄十年(一六九七)丁丑又、修造し給ヘリ」とある。 創建についての・「尾張恂行記」による慶長十八年は恐らく永安寺の管轄に入った歳をさすのではなかろうか。昭和二〇年五月一四目の空節で、本堂、大日堂などすべて焼失、わずかに経学のみ残った。墓碑に弘化四年(一八四七)の風外禅史塔と明浜六年の岡田元撰文の杉本蘭泉筆塚碑がある。

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