|
法華{示。旧町名で、北押切町二十二番地。『尾張恂行記』に「府志日夕本龍寺在押切村、号慈雲山、日蓮宗 属越後州本成寺」とある。また、同書に追加として「本龍寺越後蒲原本成寺ノ末ナリ、往古ハ天台宗塔頭十二区アリ、永享七年二四三五)卯歳二改宗ス」とある。文安元年(一四四四)に日存上人の開基。境内に、題目曼陀羅碑(永録元年。八二六日大林坊日尭作)がある。それは自然石硬質砂岩の河戸石で清水甲斐宇下屋敷(天神山町)より出土した。国文学者鈴木眼の晩年における寄寓先であった勝田三折の墓碑が享和三年(一八〇三)建立と、天保一一年(一八四〇)建立との二つがある。 勝田三折墓碑に「先生氏勝田 譚忠信 字三折 初先生之父 勝田貞忠 君養於外家木造貞次翁翁之先 岐阜之望族也 後移居名護屋樽屋坊 数持至翁 翁養君為子 妻以其女 分資財授生産而君生先生 先生幼失明 學鍼術比喜田元享 長面益勤 竟至其妙 名聾籍甚子遠週 請治者 日数十百人也 寛政乙卯 故教令世子不預 特召先生鍼之有効 乃擢為替員 賜月俸七口 享和 焚亥 病致仕 子章珪嗣 賜俸米三十芭 先生二男三女 長女嫁替員石井隆庵 次男興二女天 章珪1 也 先生子元文戊午三月十日 以享和発亥六月三日歿 享年六十六 葬于押切本龍先壁側 銘曰見者不見 聴者聴 忘明處聞 竟得其精 享和三年発亥秋八月 孝子 勝田章珪建 養老 浅野 徽撰 石蘭都築 庸書」 現住職は間瀬日勤氏。なお、日蓮宗系は一礼一一示派を数え、在家教団として霊友会、立正佼成会、創価学会など約二〇教団を誇っている。 |
|
|