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上宿山神社
もと、山ノ神社といい、昭和二〇年五月一四日の戦災で、隣接の武島天神社共に焼失したため、昭和一二年三月五日に天神社を山神社に招魂。同年四月一五日に非公認に上宿神社と称えた。後に武島天神社は泥町(現、城西五丁目)に、再び、分離したが、山神社の方はそのまま、上宿神社と呼称した。『名古屋市史』によれば「勤請の年は不明」。北朝の文和三年(ニ二五五)の棟札があったので、それ以前の鎮座である。初めの鎮座地は猿屋と呼ばれた那占野村にあったが、名古屋城築城のため、現今の地へ遷宮させられた。明暦二年、寛文二年、元禄三年と、それぞれ重修遷宮があった。祭神は大山祇社。境内社は神明社、稲荷社、金刀比羅社(現在、神明社は合祀)。例大祭は一一月六日、社司は初め、巾下浅間の藤本坊と称する山伏であったが、延宝元年(一八七三)藤本坊の二男三谷右近が奉仕し、以後、大体ご二谷家で継承し、現宮司は三谷芳三氏。尾張藩では十社家とて、東照宮神官吉見氏が統率していたが、その十社家の一つに、
山神社神主もあった。その他の九社家は日ノ出神社家、洲崎神社家、朝日神社家、泥江県神社家、洲崎神社家、赤塚神社家、材木町白山社家、冨士浅間神社家、広井浅間社家である。この十社家はかなり富裕であったようで、山崎川筋の宝生前新田を開拓した。また、尾州領内の勧化の藩許を万延元年(一八六〇)に得ていた。なお、築城のため移転した庄屋に渡辺円右衛門、同仁兵衛の両家があり、旧藩時代には三星屋の名と共に権勢をふるった。その子孫の方が城西四丁目に現住してみえる。氏子は主に城西四、五丁目にわたり武島天神社と競合している。

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