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冨士浅間神社
祭神の木花開耶姫命は大山祗神の子で、天孫瓊々杵尊の后でもある。社伝にによれば、今から六百年前の応永五年(一三九八)六月に、三谷源太夫が藤塚町(現、東区内)に謹請したが、慶長一五年(一六一〇)名古屋城築城工事のため、現在地に移った。天正一〇年(一五八二)七月十一日には池川家康が参詣し、朱印状を与えた。『名古屋市史』には、「境内百二十六坪一合六勺、徳川時代の寺社志に百九十ニ坪、享保三年(一七四三)六月の覚には七畝十歩とあり、皆、除地なりき。もとは浅間社といひ、俗に、巾下浅間といふ。謹請の年月詳ならず、往古は今の東区富士塚町三丁目富士社の地にありしを、此時、境内六十間四方ありきといふ。徳川時代には此地にて出産すること、及び畑に不浄を入れることを禁ぜられきといふ。享保九年(一七二四)五月焼失、元治元年(一八六四)に修造遷宮す。明治初年に村社に列す」とある。末社は本殿の東と西に別れ、東末社は稲荷社(祭神、倉稲魂命)神明社、疱瘡社、白山社、津島社、秋葉社、天神社があり、このうち、津島社は慶長年間に創建なれど、もと紙漉町にあったのを大正元年一一月に当社に合祀した。西末社には宗像社と金刀比羅社がある。宗像杜は祭神市杵島比売、此社はもと武島ノ社または瀧高ノ社ともいって、武島なる旧地は上宿五平蔵町(現、城西五丁目)で、享保八年(一七二三) 一二月に当社に合祀した。『尾張志』に「武島の旧地は五平蔵町の東北の方、田圃のすに辨才といふ地にて、東西十二間、南北八間ばかりある水田としてここの神掌れり」とある。現在、宗像神社が祀られている。また、冨士浅間神社の境内にはかつて江川に架橋していた「せんげんばし」「江川橋」の石枕がある。例祭は一○月四、五日、氏子の各町内には提燈がともされて、夜空を色どり、山車がねりあるく。そのほか、七月五日には赤丸神事といって幼児の癇虫除けに子供の額に赤丸を書く。八月五日には「祓声」で身をきよめ「茅の輪」くぐりがある。藩政時代には九月四日が試楽、五日に神楽湯立の神事があった。

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