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武島天神社
旧町名を泥町一丁目八番地といった。この地はもと、武島梅の木といい、その後、五平蔵町、上宿六軒町、天神町と称していた、藩政時代には東西十二問、南北八間で除地であった。勤請年月日は不明だが、一説には応安元年(一三六八)といわれ、そのころは深井丸の南あたりにあって、名古屋城築城のため、現在地に選宮。『尾張志』に「武島の旧址は五平蔵町の東北の方、田圃の字に辨才といふ地にて、東西十二間、南北八間ばかりあるを水田として、ここの神主掌れり」とある。いつごろから宗像社から天神社になったかは不明。かつて山神社の末社となり、万治四年(一六六一)修造遷宮、明治一三年三月独立して村社となる。祭神は少彦名命。『尾張志』に「中央は菅原神、左に中将殿、右は吉祥天」とあるが、天神というのは「本国帳」でいう天神で、すなわち、古来の神をいうもので、菅原天神をいうものではないという説もある。
「尾張地名考」に'「瀧川弘美曰く上宿土呂町二武嶋天神ノ社アリ、社人見谷氏ニコレヲ守ル、既二名古屋トイフ村ハモトハ泥江県ノ境内ナラムト撰者ノイヘルニ就テ予、按ズルニ土呂町ト呼フハ即チ泥江ヨリ轉リキニケム俤ナルベシ。天神トイフモ、本国帳ニイヘル天神ニテ、今、子共等ノ菅原天神トスルモノハ近世ノ誤ナルベシ。大野信景ハ袋町条ノ西ナル八幡宮ヲ泥江県天神トセラレタレド、些力詳ナラズゾオボユル。正生考フルニ、里老ノ話二廣井ノ八幡神輿行幸ノ綜二付テ、上宿ノ天神ト何ヤラン縁モアリシト聞ヌトモイフ。柳八幡宮ハ後世、鎌倉頼朝ノ郷以来流行ノ御神ニシテ室町ノ末ヨリ信長公ノ世二引続キテ亦、盛二八幡宮ノ社号モ増長タリトゾ、爰ヲモテ按フルニ泥江天神ノ旧地ハト宿ノ方サンチ後世、袋町トニ所子分レタルニモアリヌペシ、猶訂スベシ」とある。

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