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『名古屋市史』によれば「境内四百十四坪あり、もと弁才天といひしが藩祖義直が筑前の宗像神社を勤請して、宗形社と号せり。今、俗に辨天、又は御深井の辨天と称す。もと、下御深井の池の島、御深井向島と称す、今北練兵場(現、名城公園)の西なる招魂社の森是なり、徳川時代には此社四十問四方あり、勤詰の年月日詳ならず」とある。また、『尾張志』に「此處の宗形の社も三神三所に別れて鎮座し給へり、其社は此下御深井なる中島の宗形の社、又、深島なる深島ノ社、武島なる瀧島社なり。此三社ともに同時に鎮座し給へる事疑なかるへし。慶長年中御城御造営の時、当社の地は北御庭の内となりしによりて、源敬公殊に尊敬し給ひしをはしめとして御代々絶す御修理加へさせ給ひて、並々ならぬ御社にそ有ける。吃永五年三月、賓徳二年五月、明鷹二年三月、天文九年二月、元亀二年五月、慶長五年八月、萬治二年三月、延賓九年九月、貢永四年五月、享保十二年三月、元文四年四月、寛延二年九月、賓暦十三年十二月、安永九年九月 |
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