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真宗大谷派。『尾張志』に「上宿五平蔵町にありて、参河国針崎村勝鬘寺の末寺なり。はじめ真言宗にて、浄蓮坊と名づけ永禄元年(一五五八)には開基。海東郡供米田村(現、豊治村)にありしを、天正年中(一五七三〜九二)に今の宗に改め、興西寺と改号せしを寛永年中(コ八二四〜四四)に北鷹匠町に移った。是より先に、元和年中(一六 五天一四)に今の御深井のうち紅葉柵の辺に移り、寛永年中に北鷹匠町に移しよし、寺伝又は町方府志などにいへるは誤りなるべし、御城御造営の後、御構内へうつすへきよしはあるべからず。慶安年中二六四八〜五二)に再び今の地に移せり。本堂に阿弥陀の木像を安置し、又、泰心院君(三代藩主綱誠)御逝去の後、御家代々の御位牌を安置し奉る御寺の外にては此寺のみにて外に例なし。鈍桜の鐘は安永四年(一七七五)未歳に鋳しよし銘に見えたり」とある。寺伝によれば「開基は敏達天皇の単子難波親王の後裔、楠木正成の男正儀の子正元の長子正徳で、元中二年二三八五)七月に甚目寺村の郷士 |
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